「徳は教えられるものなのか」。メノンがソクラテスに問いかける。ソクラテスはメノンに質問をしながら、それについて考察する。 ソクラテスとメノンの対話で成り立っている。解説によると、対話設定年代は前402年の初めころ。

この考察の中で、ソクラテスは召使に図形の計算をさせる。召使は、学んだことがないものを、ソクラテスの質問の助けによって、正しい答えを導きだす。それについて。
「しかるにこの子がそうしたいろいろの思わくを得たのは、現在のこの生においてではないのだとすると、いまやこういうことが明らかではないかね - すなわち、彼はこの生涯以外の他の時において、すでにそれをもっていたのであり、まなんでしまっていたのであるということが。」
「そこで、もしこの子が人間であったときにも、人間として生まれていなかったときにも、同じように正しい思わくがこの子の中に内在していて、それが質問によってよびさまされたうえで知識となるというべきなら、この子の魂は、あらゆるときにわたって、つねに学んでしまっている状態にあるのではないだろうか? 」
「そこで、もしわれわれにとって、もろもろの事物に関する真実がつねに魂の中にあるのだとするならば、魂とは父子のものだということになるのではないだろうか。したがって、いまたまたま君が知識をもっていないような事柄があったとしても ― ということはつまり、想い出していないということなのだが ― 心をはげましてそれを探求し、想起するようにつとめるべきではないだろうか?」
 人類が生まれてからこれまでに獲得したものが私たちの中に残っている。「学ぶ」ということは、すでに獲得している、けれど忘れている記憶を思い起こすこと。日本語訳では想起という言葉をあてがわれている。いま現在知らないでいることも、探求していけば、必ず正しい答えにたどり着く。

ソクラテスの「質問をして、真理にたどり着く方法」は、この想起を信じているからなのだろう。人が一生のうちに得られる知識と経験の限界を、人類の歴史から得たものと比べると、人が誰も無知であるという考えは、納得できる。




 
徳が知識または、知識の一部であれば教えることはできる。
強さ、健康、美しさ、富など ― それらは正しく導かれた場合のみ有益である。

「何かものごとが学ばれる場合にも、しつけられる場合にも、知性を伴ってこそ有益となり、知性を伴わなければ有害なものとなる」
徳は善きものである。
ということは、徳とは知でなければならないことになる。 


徳は教えることができるのか?徳のあるものが、自分の子供に徳を教えることができていないなどの例から、徳は教えられるものではない。教えられる教師がいない。教えられる人がいないということは、教えることができない。教えることができないということは知ではない。


徳は知ではない。
ソクラテスは、徳は思わくによるものだという。
「他方の物が知識のかたちで把握している事柄について正しい思わくをもっているかぎりは、知ってはいないが思うところが真実をついているというその状態のままで、導き手としてはすこしも劣るところがないのだ ― それをちゃんと知っている人とくらべてもね。」
「してみると、行為の正しさということに観点をおくなら、正しい思わくは、導き手として「知」に何ら劣るものではないことになる。」
「正しい行為を導くのはただ「知」だけだと言っていた・・・ 実際にはしかし、正しい思わくもまたそうだったのだ。」

ソクラテスは次のように締めくくる。
「もし徳がだれかにそなわるとすれば、それは明らかに、神の恵みによってそなわるのだということになる。しかしながら、これについてほんとうに明確なことは、いかにして徳が人間にそなわるようになるかということよりも先に、徳それ自体はそもそも何であるかという問を手掛けてこそ、はじめてわれわれは知ることができよう。」 

今ある徳は思わくによるもの。誰も徳が何かを知らない。神の恵みと思わくによって徳がそなわっている。本当の徳は、知に導かれたものである。