カテゴリ: 哲学

マルクス・アウレリウスの本はこの一冊だけです。マルクス・アウレリウスが学んだことや、考えていることを記録したものです。読み手が自分の状況を振り返り、考え方の手本とするような金言でいっぱいです。
回想せよ。君はどのようなことを経験してきたかを。どのような[苦しい]ことに十分耐えることができたかを。そして君の生涯の歴史はすでに書き終えられ、君の奉仕は完了したことを。そしていかに多くの美しいものが君によって見られたかを。またいかに多くの快楽と苦痛を君が軽視したかを。いかに多くの名声をもたらすはずのことを君が無視したかを。いかに多くの不親切な人たちに対して君が親切であったかを。(p.98)

私が見た美しいもの:太陽、月、星、空、川、海、山、土、木、犬、猫、人間、牛、雀、鳩、鷲、鯵、秋刀魚、ピラニア、、、

考えていくと、先のページの文に繋がる。
「自然によって生じるものの上に[付随的必然的に]生じるものもまた、ある種の優美さと魅力をもっている」(p.37)
 例えば、パンが焼かれるとき、その幾つかの部分に割れ目ができる。そしてこのようにして割けたこれらの部分は、ある意味ではパン作りの技術の意図に反しているのだが、何かしらわれわれの目を惹きつけて、その食品に対する食欲を独特な仕方で奇妙にそそるのである。そしていちじくも、よく熟れたときに、口をあける。また爛熟したオリーブの実の場合、腐敗に近づいたまさにその状態こそが、この果実に一種独特の美を添える。また[よく実って]垂れ下がる小麦の穂や、ライオンのたるんだ眉のあたりのしわや、猪の口から流れ出る泡や、その他多くのものが、もし人がそれらだけを単独に眺めようとすれば、みめ形がよいとはとても言えないのだが、にもかかわらずそれらは、自然によって生じるものに付随することによって、[自然物に]協力して飾りを添え、われわれの魂を魅了するのである。 
 だから、もし人が全体[宇宙]の内で生じるものに対して感受性とかなり深い洞察をもつならば、その人には、付随的に生起する事象でさえも、何かしら快適なふうに出現するのでないようなものは、ほとんど何一つないように思えるであろう。そしてこのような人は、実物の野獣のくわっと開かれた口をも、画家や彫刻家が実物をまねて提示する作品に劣らず、楽しく眺めることであろう。彼はまた老婆や老爺にも一種の盛りと艶やかさを認めるであろうし、また自分の所有する少年[奴隷]たちのあでやかさを[自然の主目的への付随事として]欲情を伴わぬ目で鑑照することができよう。そしてこのたぐいのことは数多くあろうが、万人に理解できることではなくて、ただ自然と自然の作物とに本当になれ親しんだ人によってのみ会得されるであろう。(pp.37)

自然によって生じるものの上に[付随的必然的に]生じるものもまた、ある種の優美さと魅力をもっている。

これを踏まえて、私がこれまでに見た美しいものを考えてみると、、、

犬の糞尿、蚊にさされたふくらみ、セミの死骸、散った花びらの暗い色、雨がふった後の草、クモの巣、、、

発想がいまいちですが、こういうことですよね。これは日々発見できて楽しそうですね。
「これは(自然によって生じるものの上に付随的必然的に生じているから)美しい」
[これは(自然によって生じるものの上に付随的必然的に生じていないから)たいして美しくない]
とか言いながら物を観たり観なかったり。

自省録① マルクス・アウレリウス/水地宗明訳


自省録 (西洋古典叢書)
マルクス アウレリウス
京都大学学術出版会
1998-04-01




第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(121年~180年)の手記。皇帝だったにも関わらず質素な生活を良しとし、哲学を尊び、良き人物であろうとした姿がうかんできます。

「余計なことに関心をもたないこと」、「無価値なことに熱心にならぬこと」、「魔術師や詐欺師がまじないや悪霊の追い払いについてしゃべる話を信用しないこと」(pp.4-5)

[精神的内面的な]自由を。そして僥幸をあてにすることはきっぱりとやめて、理性(ロゴス)以外の何ものにも、たとえ僅かの間でも、頼らないことを。また、いつでも同じ[人物]であることを ― 苦痛の激しいとき、子供を失ったとき、長患いのときにも。(p.7)

この文章を読んで、占いで一喜一憂したり、神頼みをすることに、自分は今まで何も思っていなかったことに気づきました。僅かの間どころか、ことあるごとに理性以外のもに頼っていることを、良いか悪いか考えたことがなかった。
現実と向き合い、良くなるように行動することが、最も賢い選択なのだろうと妙に納得しました。

納得はしましたが、それを実行に移すのは難しいです。マルクス・アウレリウスも難しいと感じていたのかもしれない。だから、自分への戒めとして、書いたのかもしれない。



自省録 (西洋古典叢書)
マルクス アウレリウス
京都大学学術出版会
1998-04-01


アメリカのスーパースターコメディアン、ルイ.C.K.の話。凄く面白いです。

《嫉妬》や、《傲慢》、《自己保身》など、普通なら隠したい部分をテーマにしています。

普通の人がジョークを言うとき、
《原則として言わない方がいいこと、そこまでは言わないだろう》
というようなことをCだとすると、それを軽々と飛び越えて、Zまでいってしまう感じです。

例えば、
実の子供二人への、愛情に優劣があることをコメディにしたものがありました。

「上の子の方が、下の子より可愛く思う」とな!!

普通、自分の子供はみな平等に愛すべきで、優劣なんてあってはならないと思うのでは?たとえ思ったとしても、
「そんなこと思ってはいけないわ…」
と自分でも思うだろうし、他の人に言うなんてとんでもない。言ったら人にどう思われるか、なんて言われるか。なにより、下の子供が聞いたら凄く傷つく。

それを、何万人の前で言うのだからつっきってる。それに面白いのは、彼の話はコメディの為に作ったものではなく、「本心から言ってる、本音だ」と感じるところです。

他にも、
「子供の舞台ほど退屈で苦痛な時間はない」

とか、

「公立学校の教師ほど馬鹿なやつらはいない」

とか

「ときどき、なんで生きてるのって聞きたくなる人がいる」

とか!!

もちろん、それぞれ理由が続く。書くと面白くないので、Netflixでぜひ。


駄目な部分、頭をよぎる優しくない考えを隠して、できるだけ正しい言動・行動を心掛けている私は、ルイスさんのコメディを見て楽になりました。許されて受け入れらるような気持ちになりました。



 → 悲劇の誕生①

ギリシャ神話「エディプス(オイディプス)」と「プロメテウス」からギリシャ悲劇の解釈について。

ギリシャ神話「エディプス」:
 

知らずに実父を殺害し、実母と結婚したエディプス。スフィンクスの謎を解いたエディプス。エディプス神話についてニーチェは次のように解釈する。

 

「予言的魔術的な力によって、現在と未来との抗しがたい力、固体化の不動の法則、一般に自然の本来の魔力が破れてしまっているところでは、途方もない半自然性 ― 前の場合には近親相姦 ― が原因として先行していなければならないのだ、と。なぜなら、自然に反抗して勝利を得ること、すなわち不自然なことによるのでなかったら、どうして自然にその秘密を手放すように強いることができようか?私はこういう認識がエディプスのあのおそろしい三重の運命にはっきり出ていると思う。すなわち、自然の ― あの二重の性質をもったスフィンクスの ― なぞを解くその同じ人物は、また父の殺害者、母の配偶者として最も神聖な自然の秩序を破らざるをえないのである。そうだ、この神話がわれわれの耳にささやこうとしているらしいことは、知恵というもの、ほかならぬディオニュソス的知恵こそは、自然にさからう悪逆であり、その知識によって自然を破滅の淵につきおとす者は、自分の身にも自然の解体を経験しなければならぬということなのだ。『知恵の切先は賢者にさしむけられる。知恵は自然に対する犯罪なのだ。』」

  

自然の秘密というのは、ここでは《人生は苦しみであり、それは固体が死んでも人類全体として、永遠に続いていく》ということと解釈できる。その深淵を知ることが知恵となる。知恵によって人は苦しむのだという。

 

 

   
 
ギリシャ神話「プロメテウスについて」:
 

人間を作ったプロメテウス。ゼウスに逆らい、人間に火をもたらしたプロメテウス。そのせいで、ゼウスの怒りをかい、山に張り付けられ、ゼウスのハゲタカに肝臓をついばまれる。プロメテウスは不死身のため、次の日に回復し、またついばまれる。ヘラクレスが通りかかって助けてくれるまで、何万年もの間この拷問は続く。

 

ニーチェは、アリアン人(ギリシア人)のプロメテウス神話と、セム族(ユダヤ人)の堕罪神話は、姉弟のような関係として次のように比較している。

 

プロメテウス神話では、火は文明のシンボルである。堕罪神話では、りんごが知識のシンボルである。ゼウスは、プロメテウスが人間に火をもたらすことを禁じた。神は、アダムとイブがエデンの庭の実を食べることを禁じた。それを行った後、彼らはそれぞれの神によって罰せられた。 

 

プロメテウス神話では、この行いは能動的な冒涜とされる。プロメテウスは意識的にそれをすると決断した。彼が火をもたらしたことは、本来のプロメテウス的な徳として描かれている。堕罪神話では、好奇心とか、偽りの演技とか、誘惑されやすい性質とか、好色とか、とりわけ女性的な性質が災いの原因とされている(イブは蛇に誘惑された)。

冒涜はアリアン人によって男性と理解され、罪はセム族によって女性と理解される。

 

さらにニーチェは次のように続ける。

一つの世界(人間の世界または神の世界)だけならば争いはおこらない。しかし二つの世界が
交わったときに(ここでは、ゼウスの神の世界に、火を持った人間が自分たちの世界を作り、神をもおそれぬ文明が起こった)、争いがおこる。

      

ギリシャ悲劇について:
 

この神話をもとに作られたギリシャ悲劇、ソポクレスの「オイディプス王」「クロノスのオイディプス」とアイスキュロスの「縛られたプロメテウス」

 

これら三つの悲劇の中心にいるのは、勇者ただ一人だ。この勇者が苦しみ、また個人としての絶滅をする。プロメテウスとオイディプスは《反アポロ的性質(巨人的な力や野蛮さ)》が具現化したものだ。ニーチェのギリシャ悲劇の解釈によると、この勇者はディオニソスの仮面である。

 

ニーチェは9章の冒頭にこう書いている。

ギリシャ悲劇のアポロ的な部分、すなわち対話において表面に出ているところは、すべて単純で、透明で、美しく見える。」
 

ギリシャ悲劇は、アポロ的・ディオニュソス的な二重構造の芸術作品である。ギリシャ神話の基質(苦しみ)はディオニュソス的であり、その基質を劇作家によって処理・加工したもの(悲劇)がアポロ的という解釈だ。

ギリシャ悲劇は人の生の深淵から目をそむけないギリシャ人によって作られた、それでも生を明るく生きるための救済のすべなのだと。 


悲劇の誕生①
 

悲劇の誕生 (岩波文庫)
ニーチェ
岩波書店
1966-06-16




ミダス王がディオニュソスの従者である賢者シレノスに問う。人間にとって最もよいこと、最もすぐれたことはなんであるか。シレノスは次のように答える。

「《みじめな一日だけの種族よ、偶然と労苦の子らよ。聞かないほうがおまえにとって一番ためになることを、どうしておまえはむりに私に言わせようとするのか?一番よいことは、おまえには、とうていかなわぬこと。うまれなかったこと、存在しないこと、無であることだ。しかし、おまえにとって次善のことは ― すぐ死ぬことだ。》」

 

巻末についている『訳注』によると、これに類する厭世思想はギリシアに多く見られるそうだ。

「たとえばテオグニスの詩に『人の子にとっては、うまれないこと、はげしい日の光を見ないことが、万事にまさってよいことである。しかし、もし生まれれば、できるだけ早くハデス(冥府)の門をすぎ、厚い大地の衣の下に横たわるにしくはない』とある。」

 

ニーチェはさらに次のように続ける。

「この民衆の知恵に対して、オリュンポスの神々の世界はどういう関係に立つであろうか?拷問にかけられた殉教者がその責苦に対して恍惚とした幻想をいだくのと同じなのだ。」

 

ニーチェが、ギリシア人の生に対するこの見方を、「民衆の知恵」と述べているのは興味深い。「知恵」とは、真理を見極める認識力のこと。そこから、ニーチェが、ギリシア人の、この考え方に全面的に賛同していることが分かる。そうでなければ、「この民衆の知恵」ではなく、「この民衆の考え方」といった言い方をすると思う。

「アポロは崇高な身振りで、苦悶の全世界がどんなに必要であるかを、われわれに示す。苦悶の世界があればこそ、ここの人間は終止あの幻影を生み出すように迫られるのであり、そういう幻影が描き出された上は、それをひたすら眺めて、大海原のただ中でも同様する小舟の上に泰然と坐っておられるからである。」

 

ニーチェは、アーリア人(ギリシア人)におけるオリュンポスの神々と、セム人(ユダヤ人)のキリスト教の対比をしている。両者ともこの世を生き抜くためには、神様を生み出すことが必要だった。

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快感にみちた仮象から成り立っているわれわれ人間は、この根源的一者のつくり出した仮象を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていえば、経験的な現実として感ぜざるをえない仕組みなっている。」



ニーチェは、全体としての人間と、個としての人間とがあると言う。個としての人間が消滅しても、全体としての人間は続いていくと。だから一度生を受けることは、永遠の苦しみのサイクルの中に入ることなのだ。

 

ニーチェは、《人間は、真の芸術家が作った芸術作品として、寝ることや、想像すること、酔っぱらうことなど、その行動全てが芸術である》と言う。さらに、《全体としての人間として、全ての人間の根底には、同じ感情がある》ことも本書の中で述べている。

 

誰もが似たような感情の動きを持つこと。それによる他者への深い共感。それらは人類共通の背景があるからなのか。



続き → 悲劇の誕生②



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