→ 悲劇の誕生①

ギリシャ神話「エディプス(オイディプス)」と「プロメテウス」からギリシャ悲劇の解釈について。

ギリシャ神話「エディプス」:
 

知らずに実父を殺害し、実母と結婚したエディプス。スフィンクスの謎を解いたエディプス。エディプス神話についてニーチェは次のように解釈する。

 

「予言的魔術的な力によって、現在と未来との抗しがたい力、固体化の不動の法則、一般に自然の本来の魔力が破れてしまっているところでは、途方もない半自然性 ― 前の場合には近親相姦 ― が原因として先行していなければならないのだ、と。なぜなら、自然に反抗して勝利を得ること、すなわち不自然なことによるのでなかったら、どうして自然にその秘密を手放すように強いることができようか?私はこういう認識がエディプスのあのおそろしい三重の運命にはっきり出ていると思う。すなわち、自然の ― あの二重の性質をもったスフィンクスの ― なぞを解くその同じ人物は、また父の殺害者、母の配偶者として最も神聖な自然の秩序を破らざるをえないのである。そうだ、この神話がわれわれの耳にささやこうとしているらしいことは、知恵というもの、ほかならぬディオニュソス的知恵こそは、自然にさからう悪逆であり、その知識によって自然を破滅の淵につきおとす者は、自分の身にも自然の解体を経験しなければならぬということなのだ。『知恵の切先は賢者にさしむけられる。知恵は自然に対する犯罪なのだ。』」

  

自然の秘密というのは、ここでは《人生は苦しみであり、それは固体が死んでも人類全体として、永遠に続いていく》ということと解釈できる。その深淵を知ることが知恵となる。知恵によって人は苦しむのだという。

 

 

   
 
ギリシャ神話「プロメテウスについて」:
 

人間を作ったプロメテウス。ゼウスに逆らい、人間に火をもたらしたプロメテウス。そのせいで、ゼウスの怒りをかい、山に張り付けられ、ゼウスのハゲタカに肝臓をついばまれる。プロメテウスは不死身のため、次の日に回復し、またついばまれる。ヘラクレスが通りかかって助けてくれるまで、何万年もの間この拷問は続く。

 

ニーチェは、アリアン人(ギリシア人)のプロメテウス神話と、セム族(ユダヤ人)の堕罪神話は、姉弟のような関係として次のように比較している。

 

プロメテウス神話では、火は文明のシンボルである。堕罪神話では、りんごが知識のシンボルである。ゼウスは、プロメテウスが人間に火をもたらすことを禁じた。神は、アダムとイブがエデンの庭の実を食べることを禁じた。それを行った後、彼らはそれぞれの神によって罰せられた。 

 

プロメテウス神話では、この行いは能動的な冒涜とされる。プロメテウスは意識的にそれをすると決断した。彼が火をもたらしたことは、本来のプロメテウス的な徳として描かれている。堕罪神話では、好奇心とか、偽りの演技とか、誘惑されやすい性質とか、好色とか、とりわけ女性的な性質が災いの原因とされている(イブは蛇に誘惑された)。

冒涜はアリアン人によって男性と理解され、罪はセム族によって女性と理解される。

 

さらにニーチェは次のように続ける。

一つの世界(人間の世界または神の世界)だけならば争いはおこらない。しかし二つの世界が
交わったときに(ここでは、ゼウスの神の世界に、火を持った人間が自分たちの世界を作り、神をもおそれぬ文明が起こった)、争いがおこる。

      

ギリシャ悲劇について:
 

この神話をもとに作られたギリシャ悲劇、ソポクレスの「オイディプス王」「クロノスのオイディプス」とアイスキュロスの「縛られたプロメテウス」

 

これら三つの悲劇の中心にいるのは、勇者ただ一人だ。この勇者が苦しみ、また個人としての絶滅をする。プロメテウスとオイディプスは《反アポロ的性質(巨人的な力や野蛮さ)》が具現化したものだ。ニーチェのギリシャ悲劇の解釈によると、この勇者はディオニソスの仮面である。

 

ニーチェは9章の冒頭にこう書いている。

ギリシャ悲劇のアポロ的な部分、すなわち対話において表面に出ているところは、すべて単純で、透明で、美しく見える。」
 

ギリシャ悲劇は、アポロ的・ディオニュソス的な二重構造の芸術作品である。ギリシャ神話の基質(苦しみ)はディオニュソス的であり、その基質を劇作家によって処理・加工したもの(悲劇)がアポロ的という解釈だ。

ギリシャ悲劇は人の生の深淵から目をそむけないギリシャ人によって作られた、それでも生を明るく生きるための救済のすべなのだと。 


悲劇の誕生①
 

悲劇の誕生 (岩波文庫)
ニーチェ
岩波書店
1966-06-16