ミダス王がディオニュソスの従者である賢者シレノスに問う。人間にとって最もよいこと、最もすぐれたことはなんであるか。シレノスは次のように答える。

「《みじめな一日だけの種族よ、偶然と労苦の子らよ。聞かないほうがおまえにとって一番ためになることを、どうしておまえはむりに私に言わせようとするのか?一番よいことは、おまえには、とうていかなわぬこと。うまれなかったこと、存在しないこと、無であることだ。しかし、おまえにとって次善のことは ― すぐ死ぬことだ。》」

 

巻末についている『訳注』によると、これに類する厭世思想はギリシアに多く見られるそうだ。

「たとえばテオグニスの詩に『人の子にとっては、うまれないこと、はげしい日の光を見ないことが、万事にまさってよいことである。しかし、もし生まれれば、できるだけ早くハデス(冥府)の門をすぎ、厚い大地の衣の下に横たわるにしくはない』とある。」

 

ニーチェはさらに次のように続ける。

「この民衆の知恵に対して、オリュンポスの神々の世界はどういう関係に立つであろうか?拷問にかけられた殉教者がその責苦に対して恍惚とした幻想をいだくのと同じなのだ。」

 

ニーチェが、ギリシア人の生に対するこの見方を、「民衆の知恵」と述べているのは興味深い。「知恵」とは、真理を見極める認識力のこと。そこから、ニーチェが、ギリシア人の、この考え方に全面的に賛同していることが分かる。そうでなければ、「この民衆の知恵」ではなく、「この民衆の考え方」といった言い方をすると思う。

「アポロは崇高な身振りで、苦悶の全世界がどんなに必要であるかを、われわれに示す。苦悶の世界があればこそ、ここの人間は終止あの幻影を生み出すように迫られるのであり、そういう幻影が描き出された上は、それをひたすら眺めて、大海原のただ中でも同様する小舟の上に泰然と坐っておられるからである。」

 

ニーチェは、アーリア人(ギリシア人)におけるオリュンポスの神々と、セム人(ユダヤ人)のキリスト教の対比をしている。両者ともこの世を生き抜くためには、神様を生み出すことが必要だった。

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快感にみちた仮象から成り立っているわれわれ人間は、この根源的一者のつくり出した仮象を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていえば、経験的な現実として感ぜざるをえない仕組みなっている。」



ニーチェは、全体としての人間と、個としての人間とがあると言う。個としての人間が消滅しても、全体としての人間は続いていくと。だから一度生を受けることは、永遠の苦しみのサイクルの中に入ることなのだ。

 

ニーチェは、《人間は、真の芸術家が作った芸術作品として、寝ることや、想像すること、酔っぱらうことなど、その行動全てが芸術である》と言う。さらに、《全体としての人間として、全ての人間の根底には、同じ感情がある》ことも本書の中で述べている。

 

誰もが似たような感情の動きを持つこと。それによる他者への深い共感。それらは人類共通の背景があるからなのか。



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