映画になった、湊かなえのミステリー。

映画を見たときは、原作が小説だということを知らず、「映画だからできるツイストだよなー」と思っていました。
大量のSNSや週刊誌の記事、登場人物ごとの視点の違いが、ツイストの重要な役割を担っていて、小説ではそれらをどういう風に文章に挟んでいるんだろうと、興味深々で読みました。

答えは、SNSや週刊誌の記事は巻末にまとめて記載してあり、章ごとに様々な登場人物が一人称で話をするという形でした。
読んでみると、シンプルで、これ以外に方法もないような気がします。

地の分はなく、被害者の知り合いのおしゃべりを、ひたすら読んでいくので、自分が事件の関係者に話を聴いているような経験をします。噂話の解釈や憶測など、一人ずつ話が少しずつ違って、真実が全く見えてこないままに、なんとなく怪しいとされている人が怪しく思えるという、現実的な錯覚を覚えて面白かったです。




マルクス・アウレリウスの本はこの一冊だけです。マルクス・アウレリウスが学んだことや、考えていることを記録したものです。読み手が自分の状況を振り返り、考え方の手本とするような金言でいっぱいです。
回想せよ。君はどのようなことを経験してきたかを。どのような[苦しい]ことに十分耐えることができたかを。そして君の生涯の歴史はすでに書き終えられ、君の奉仕は完了したことを。そしていかに多くの美しいものが君によって見られたかを。またいかに多くの快楽と苦痛を君が軽視したかを。いかに多くの名声をもたらすはずのことを君が無視したかを。いかに多くの不親切な人たちに対して君が親切であったかを。(p.98)

私が見た美しいもの:太陽、月、星、空、川、海、山、土、木、犬、猫、人間、牛、雀、鳩、鷲、鯵、秋刀魚、ピラニア、、、

考えていくと、先のページの文に繋がる。
「自然によって生じるものの上に[付随的必然的に]生じるものもまた、ある種の優美さと魅力をもっている」(p.37)
 例えば、パンが焼かれるとき、その幾つかの部分に割れ目ができる。そしてこのようにして割けたこれらの部分は、ある意味ではパン作りの技術の意図に反しているのだが、何かしらわれわれの目を惹きつけて、その食品に対する食欲を独特な仕方で奇妙にそそるのである。そしていちじくも、よく熟れたときに、口をあける。また爛熟したオリーブの実の場合、腐敗に近づいたまさにその状態こそが、この果実に一種独特の美を添える。また[よく実って]垂れ下がる小麦の穂や、ライオンのたるんだ眉のあたりのしわや、猪の口から流れ出る泡や、その他多くのものが、もし人がそれらだけを単独に眺めようとすれば、みめ形がよいとはとても言えないのだが、にもかかわらずそれらは、自然によって生じるものに付随することによって、[自然物に]協力して飾りを添え、われわれの魂を魅了するのである。 
 だから、もし人が全体[宇宙]の内で生じるものに対して感受性とかなり深い洞察をもつならば、その人には、付随的に生起する事象でさえも、何かしら快適なふうに出現するのでないようなものは、ほとんど何一つないように思えるであろう。そしてこのような人は、実物の野獣のくわっと開かれた口をも、画家や彫刻家が実物をまねて提示する作品に劣らず、楽しく眺めることであろう。彼はまた老婆や老爺にも一種の盛りと艶やかさを認めるであろうし、また自分の所有する少年[奴隷]たちのあでやかさを[自然の主目的への付随事として]欲情を伴わぬ目で鑑照することができよう。そしてこのたぐいのことは数多くあろうが、万人に理解できることではなくて、ただ自然と自然の作物とに本当になれ親しんだ人によってのみ会得されるであろう。(pp.37)

自然によって生じるものの上に[付随的必然的に]生じるものもまた、ある種の優美さと魅力をもっている。

これを踏まえて、私がこれまでに見た美しいものを考えてみると、、、

犬の糞尿、蚊にさされたふくらみ、セミの死骸、散った花びらの暗い色、雨がふった後の草、クモの巣、、、

発想がいまいちですが、こういうことですよね。これは日々発見できて楽しそうですね。
「これは(自然によって生じるものの上に付随的必然的に生じているから)美しい」
[これは(自然によって生じるものの上に付随的必然的に生じていないから)たいして美しくない]
とか言いながら物を観たり観なかったり。

自省録① マルクス・アウレリウス/水地宗明訳


自省録 (西洋古典叢書)
マルクス アウレリウス
京都大学学術出版会
1998-04-01




第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(121年~180年)の手記。皇帝だったにも関わらず質素な生活を良しとし、哲学を尊び、良き人物であろうとした姿がうかんできます。

「余計なことに関心をもたないこと」、「無価値なことに熱心にならぬこと」、「魔術師や詐欺師がまじないや悪霊の追い払いについてしゃべる話を信用しないこと」(pp.4-5)

[精神的内面的な]自由を。そして僥幸をあてにすることはきっぱりとやめて、理性(ロゴス)以外の何ものにも、たとえ僅かの間でも、頼らないことを。また、いつでも同じ[人物]であることを ― 苦痛の激しいとき、子供を失ったとき、長患いのときにも。(p.7)

この文章を読んで、占いで一喜一憂したり、神頼みをすることに、自分は今まで何も思っていなかったことに気づきました。僅かの間どころか、ことあるごとに理性以外のもに頼っていることを、良いか悪いか考えたことがなかった。
現実と向き合い、良くなるように行動することが、最も賢い選択なのだろうと妙に納得しました。

納得はしましたが、それを実行に移すのは難しいです。マルクス・アウレリウスも難しいと感じていたのかもしれない。だから、自分への戒めとして、書いたのかもしれない。



自省録 (西洋古典叢書)
マルクス アウレリウス
京都大学学術出版会
1998-04-01


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