主人公は、幼い頃から世間と考えることがずれている女の子。例えば、公園で死んでいる小鳥を見つけて、お父さんは焼き鳥が好きだし、妹は唐揚げが好きなことを連想する。小鳥を手のひらにのせて、母親のもとに行き、「食べよう」という。主人公にとって自然な考えは、母親や周囲の人には異常に思える。母親は、「小鳥さんかわいそうでしょ」と主人公に埋めてあげるように諭す。咲いている花を摘んで、小鳥を埋めた土の上に死んだ花をのせ、食べたアイスの棒をさす。母親や周囲の子供たちの行動が、主人公には異常に思える。

この(自分の所属する)世界の常識が分からない。そんな主人公が、コンビニ店員としてだけは、普通であるように演じられる。主人公は、コンビニで働く他の店員たちの話し方や話すフレーズを真似する。だから一緒に働く人によって、話し方がかわる。


人は自分の所属する世界 の常識に、自分の行動や言動を合わせようとする。自分がいる社会での当たり前をさがし、それに自分をあてはめようとする。違う常識を持つ社会で暮らすと、そこでの態度や言葉遣いに自分を近づける。だから、暮らす社会が変われば、個人も変わる。それは二つの全く違う人生のように。周りに居る人によって話し方が変わることは、その代表的なものの一つとしてこの本の中で挙げられている。


主人公は、36歳、独身、コンビニでアルバイトをしていて、恋愛をしたことがない。そのことを世間(友達や家族、他のコンビニ店員)からおかしく見られる。自分の所属する世間の常識と異なる考えを持つ主人公。そこでの常識を理解できず、順応できないことが丁寧に描かれている。現実社会では、周りの人間に理解されないこと、理解できないこと、変に思われるだろうから隠すことって、たくさんあると思う。そこで苦しんでいない人なんて、いないんじゃないかっていうくらいに。

 
コンビニ人間
村田 沙耶香
文藝春秋
2016-07-27






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 → 悲劇の誕生①

ギリシャ神話「エディプス(オイディプス)」と「プロメテウス」からギリシャ悲劇の解釈について。

ギリシャ神話「エディプス」:
 

知らずに実父を殺害し、実母と結婚したエディプス。スフィンクスの謎を解いたエディプス。エディプス神話についてニーチェは次のように解釈する。

 

「予言的魔術的な力によって、現在と未来との抗しがたい力、固体化の不動の法則、一般に自然の本来の魔力が破れてしまっているところでは、途方もない半自然性 ― 前の場合には近親相姦 ― が原因として先行していなければならないのだ、と。なぜなら、自然に反抗して勝利を得ること、すなわち不自然なことによるのでなかったら、どうして自然にその秘密を手放すように強いることができようか?私はこういう認識がエディプスのあのおそろしい三重の運命にはっきり出ていると思う。すなわち、自然の ― あの二重の性質をもったスフィンクスの ― なぞを解くその同じ人物は、また父の殺害者、母の配偶者として最も神聖な自然の秩序を破らざるをえないのである。そうだ、この神話がわれわれの耳にささやこうとしているらしいことは、知恵というもの、ほかならぬディオニュソス的知恵こそは、自然にさからう悪逆であり、その知識によって自然を破滅の淵につきおとす者は、自分の身にも自然の解体を経験しなければならぬということなのだ。『知恵の切先は賢者にさしむけられる。知恵は自然に対する犯罪なのだ。』」

  

自然の秘密というのは、ここでは《人生は苦しみであり、それは固体が死んでも人類全体として、永遠に続いていく》ということと解釈できる。その深淵を知ることが知恵となる。知恵によって人は苦しむのだという。

 

 

   
 
ギリシャ神話「プロメテウスについて」:
 

人間を作ったプロメテウス。ゼウスに逆らい、人間に火をもたらしたプロメテウス。そのせいで、ゼウスの怒りをかい、山に張り付けられ、ゼウスのハゲタカに肝臓をついばまれる。プロメテウスは不死身のため、次の日に回復し、またついばまれる。ヘラクレスが通りかかって助けてくれるまで、何万年もの間この拷問は続く。

 

ニーチェは、アリアン人(ギリシア人)のプロメテウス神話と、セム族(ユダヤ人)の堕罪神話は、姉弟のような関係として次のように比較している。

 

プロメテウス神話では、火は文明のシンボルである。堕罪神話では、りんごが知識のシンボルである。ゼウスは、プロメテウスが人間に火をもたらすことを禁じた。神は、アダムとイブがエデンの庭の実を食べることを禁じた。それを行った後、彼らはそれぞれの神によって罰せられた。 

 

プロメテウス神話では、この行いは能動的な冒涜とされる。プロメテウスは意識的にそれをすると決断した。彼が火をもたらしたことは、本来のプロメテウス的な徳として描かれている。堕罪神話では、好奇心とか、偽りの演技とか、誘惑されやすい性質とか、好色とか、とりわけ女性的な性質が災いの原因とされている(イブは蛇に誘惑された)。

冒涜はアリアン人によって男性と理解され、罪はセム族によって女性と理解される。

 

さらにニーチェは次のように続ける。

一つの世界(人間の世界または神の世界)だけならば争いはおこらない。しかし二つの世界が
交わったときに(ここでは、ゼウスの神の世界に、火を持った人間が自分たちの世界を作り、神をもおそれぬ文明が起こった)、争いがおこる。

      

ギリシャ悲劇について:
 

この神話をもとに作られたギリシャ悲劇、ソポクレスの「オイディプス王」「クロノスのオイディプス」とアイスキュロスの「縛られたプロメテウス」

 

これら三つの悲劇の中心にいるのは、勇者ただ一人だ。この勇者が苦しみ、また個人としての絶滅をする。プロメテウスとオイディプスは《反アポロ的性質(巨人的な力や野蛮さ)》が具現化したものだ。ニーチェのギリシャ悲劇の解釈によると、この勇者はディオニソスの仮面である。

 

ニーチェは9章の冒頭にこう書いている。

ギリシャ悲劇のアポロ的な部分、すなわち対話において表面に出ているところは、すべて単純で、透明で、美しく見える。」
 

ギリシャ悲劇は、アポロ的・ディオニュソス的な二重構造の芸術作品である。ギリシャ神話の基質(苦しみ)はディオニュソス的であり、その基質を劇作家によって処理・加工したもの(悲劇)がアポロ的という解釈だ。

ギリシャ悲劇は人の生の深淵から目をそむけないギリシャ人によって作られた、それでも生を明るく生きるための救済のすべなのだと。 


悲劇の誕生①
 

悲劇の誕生 (岩波文庫)
ニーチェ
岩波書店
1966-06-16




ミダス王がディオニュソスの従者である賢者シレノスに問う。人間にとって最もよいこと、最もすぐれたことはなんであるか。シレノスは次のように答える。

「《みじめな一日だけの種族よ、偶然と労苦の子らよ。聞かないほうがおまえにとって一番ためになることを、どうしておまえはむりに私に言わせようとするのか?一番よいことは、おまえには、とうていかなわぬこと。うまれなかったこと、存在しないこと、無であることだ。しかし、おまえにとって次善のことは ― すぐ死ぬことだ。》」

 

巻末についている『訳注』によると、これに類する厭世思想はギリシアに多く見られるそうだ。

「たとえばテオグニスの詩に『人の子にとっては、うまれないこと、はげしい日の光を見ないことが、万事にまさってよいことである。しかし、もし生まれれば、できるだけ早くハデス(冥府)の門をすぎ、厚い大地の衣の下に横たわるにしくはない』とある。」

 

ニーチェはさらに次のように続ける。

「この民衆の知恵に対して、オリュンポスの神々の世界はどういう関係に立つであろうか?拷問にかけられた殉教者がその責苦に対して恍惚とした幻想をいだくのと同じなのだ。」

 

ニーチェが、ギリシア人の生に対するこの見方を、「民衆の知恵」と述べているのは興味深い。「知恵」とは、真理を見極める認識力のこと。そこから、ニーチェが、ギリシア人の、この考え方に全面的に賛同していることが分かる。そうでなければ、「この民衆の知恵」ではなく、「この民衆の考え方」といった言い方をすると思う。

「アポロは崇高な身振りで、苦悶の全世界がどんなに必要であるかを、われわれに示す。苦悶の世界があればこそ、ここの人間は終止あの幻影を生み出すように迫られるのであり、そういう幻影が描き出された上は、それをひたすら眺めて、大海原のただ中でも同様する小舟の上に泰然と坐っておられるからである。」

 

ニーチェは、アーリア人(ギリシア人)におけるオリュンポスの神々と、セム人(ユダヤ人)のキリスト教の対比をしている。両者ともこの世を生き抜くためには、神様を生み出すことが必要だった。

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快感にみちた仮象から成り立っているわれわれ人間は、この根源的一者のつくり出した仮象を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていえば、経験的な現実として感ぜざるをえない仕組みなっている。」



ニーチェは、全体としての人間と、個としての人間とがあると言う。個としての人間が消滅しても、全体としての人間は続いていくと。だから一度生を受けることは、永遠の苦しみのサイクルの中に入ることなのだ。

 

ニーチェは、《人間は、真の芸術家が作った芸術作品として、寝ることや、想像すること、酔っぱらうことなど、その行動全てが芸術である》と言う。さらに、《全体としての人間として、全ての人間の根底には、同じ感情がある》ことも本書の中で述べている。

 

誰もが似たような感情の動きを持つこと。それによる他者への深い共感。それらは人類共通の背景があるからなのか。



続き → 悲劇の誕生②



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